私たちの里山活動
里山とは
「里山」の定義には研究者によって様々であり、「奥山」に対する「集落の近くにある林野の総称」として用いられるのが一般的です。ほかのホームページなどを見ると、農村周囲の樹林地を中心として、田畑・草地・畦・溜池などから構成される総合的環境を「里地里山」と定義しています。それで、樹林地を「里山林」と呼びます。地域による差はありますが、例をしめすと・・・
信州の場合
江戸時代以降、山は入会林野として、人々の約束で利用されていた。木材資源の供給地として,また,養蚕に欠かせない桑の供給地として集落にとって欠かせない経済的空間として活用されていた。しかし、これらの経済的空間は明治以降大きく変容した。材木の利用をみこみ、カラマツが植林された。成長するまでに、外国の材木が日本に入ってきたので、高度経済成長期の前後に崩壊した。
また、宗教的空間と遊び空間としての利用があった。
虫送り行事の一種である「火とぼし」などがあり、行事があると山の手入れがおこなわれた。
遊び空間として、小中学校の通学路であった里山は、下校途中は山中が遊び場となった。
スガリと呼ばれる蜂の巣採集、昆虫採集、基地作り、カジカ採りなどが山中・山周辺で行われていた。
しかし、林野の手入れが縮小し、ブッシュ化した山は子供達にとって、またその親達にとっても「危険な場所」と認知されるようになり、室内遊具の高度化などの娯楽の多様化や習い事の増加など、放課後や休日の過ごし方かつてとは劇的に変化したことにより、遊び空間としての機能が無くなっていった。
今後の里山は、経済的な空間から、子供達に学ぶ場・遊ぶ場を提供し、大人達にはコミュニケーションの場を提供することがあげられる。
関西では
里山の林はアカマツやツツジなどの二次林で構成されている。ところが、さらに強い人間活動がおこなわれると、里山植物も次第に減ってきて,最後には禿山になってしまう。六甲山がよい例である。ある研究者は、わが国の社会をはげ山の文化と呼び、里山を禿山にするほど徹底して利用しつくさなければならないような人々の生活があったことに注目している。明治の治山に六甲山を始め多くの山で植林がおこなわれるようになった。洪水対策である。
江戸時代末期にはアカマツの他にツガやコナラなど種類が多かったが、明治時代に入るとアカマツだけになった。禿山化はじつは明治維新の頃がピークで、文明開化が社会秩序を乱し、盗伐するようになり、里山を維持できなくなったようだ。
一般の家庭でも昭和30年代頃から石炭や石油などが使われはじめた。
農家においても、燃料や化学肥料の利用、農業の機械化という事が進み、里山に依存した農業のあり方が変わった。薪炭に代わりプロパンガスや石油を使い、薪炭造りや柴刈は行われなくなった。化学肥料の普及は草刈や落葉かきで作る堆肥や柴木を燃やして得られた木灰を使わなった。
耕うん機や自動車の使用により牛馬が不用となり、えさになる草刈をしなくなった。
このように、里山が放置され始めたのである。里山は、現在どんどん変化し続け、照葉樹林に成ろうとしている。
里山管理をどうするか
里山が放置され、照葉樹林になれば、薄暗く見通しの悪く、夏場に蚊も多いし余り好まれないのではないかという考えがある。見通しのよい従来型の里山のアカマツ林やクヌギ・コナラの雑木林をという人もいる。
里山管理は照葉樹林にするのか、従来的里山の自然環境をもとめるのかは、どのくらい手をかけるのかが問われるのである。
私たちの里山活動
かつての里山は生活に欠かせない燃料(薪と炭)や肥料(落ち葉)、山菜、貴重なタンパク源としてのウサギやイノシシをとる資源供給の場所でした。そんな役割を終えた里山は、今のわたしたちに心の安らぎを与える、そんな新しい役割を期待しているように思えます。
山を歩いて、こずえを渡る風の音に耳を澄ませてみましょう。
鳥の歌を聞き、若葉のまぶしさに目を細めてみましょう。
紅葉に秋をしみじみと感じてみましょう。
私たちは「野生生物を調査研究する会」の先生方のご指導の下、兵庫県三田市内で里山を復活する取り組みを行なっています。私たちの活動の場は、昭和40年代頃までは生活の場でした。その後、人の手が入らぬ荒れた山になっていました。これまでの活動で、今、ほんの少しだけ昔の山が見えてきました。一緒に自然の恵みを少しだけ分けてもらう活動をしませんか。
ナチュラリストクラブでは月一度里山保全活動を行っています。日程は以下の通りです。
毎月 第一日曜日 集合 10:00 JR新三田駅 出口付近 (15:00 解散予定) 持ち物 弁当、水筒 |
参加希望の方は、事前に連絡してください
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